みんな太陽

【作詞】はたけやまはるき
【作曲】はたけやまはるき

1.さみしくたって 悲しくたって
  両手いっぱいひろげて 歩いて行こう
  ぼくらはいつも さわやかな心で
  新しい明日を 照らして行こう
  ※ぼくら ひとりひとりが太陽
   真っ赤な太陽
   ひとりひとりが太陽
   燃えあがれ
   君も 君も 君も 君も
   みんな太陽さ

2.くやしくたって 空しくたって
  力いっぱい歌って 歩いて行こう
  ぼくらはいつでも 確かなこの目で
  新しい明日を 開いて行こう
  ※くり返し

3.苦しくたって きびしくたって
  若さいっぱい燃やして 歩いて行こう
  ぼくらはいつでも 大きな心で
  新しい明日を 目指して行こう
  ※くり返し


本日、さんたま屋さんで歌ってきました。
その際に、アコの小嶋さんから、この曲の経緯を聞いてきましたので、ご紹介します。

この曲の背景
 小平養護学校を卒業した障害をもつ子どもたちは、世間の冷たい仕打ちや差別のためになかなか就業することができなかった。自分たちで作業所をつくり自らの力で生活しようという動きが持ち上がりました。
 当時小平養護学校の教員だった中川、藤井がその職を辞して作業所づくりの援助と運動をはじめ、そして中川の実家が所有するアパートの一室で「あさやけ作業所」が誕生します。
 働く場所の出来た障害児(者)たちはその数も増え、それまでのアパートの一室での作業所はますます狭隘になってしまっため、新たな施設づくりの必要性が発生しました。
 中川らは新しい施設の建設にあたって同時に「社会福祉法人」の認可所得をすすめるための運動を、市民とともに行うことを提案。この市民運動をともに支え、前進させるその先頭にたったのが、中川らもそのメンバーだった小平の地域うたごえサークル「ハミングチューチュー」でした。
 うたごえという特徴をいかし、「あさやけ」をひろく知ってもらい、運動をひろげ支える手段として「合唱構成」の創作と「市民合唱団による演奏」というものです。
 ハミングチューチューの指導者だった三多摩青年合唱団の小林光さんを中心に、音楽センターの松永勇次さんの力も借りながら、小平のみならず周辺地域の市民、学生なども参加した総勢100人からの「あさやけの仲間たち合唱団」が結成されました。合唱構成は障害児(者)たちが自らの生活や心情、葛藤を率直に表現したものを歌とナレーションにまとめたものです。

「みんな太陽」
 この合唱構成のなかの一曲。障害があったって俺たちはは生きているんだ、人間なんだ。俺たちだって働いているんだ。歌をなかまたちとそして市民といっしょに歌えるんだ。舞台に立っておもいきり輝けるんだ、という気持ちを代弁したハミングチューチューのメンバー「はたけやま はるき(畠山 春喜)」が作詞作曲したものです。1983年合唱構成「あさやけの仲間たち」が完成、100人をこえる障害を持つ人も健常者もいっしょに舞台ではじけた初演は、2000人をこえる聴衆を集めて大成功を収め、以後85年までに全国13カ所で演奏されました。
 1984年の「あかはた祭り」での特別演奏会、1985年日本のうたごえ祭典では特別音楽会が企画されました。またこの年、日本のうたごえ協議会総会はこの「あさやけ」の運動に学び全国的な取り組みを展開することを決議、「うたごえは生きる力」のスローガンを満場一致で採択します。これ以後、全国の障害者作業所や施設での「うた運動」が隆盛を極めています。

はたけやま はるき
 ハミングチューチュー創立からのメンバー。田無にある株式会社「市建」工務店で大工、現場監督をつとめてました。後に「市建群馬支店」に転勤。退社後自分で工務店を経営してました。この曲の他「明るい朝(あした)を」などの作品があり、リズミカルな曲を得意としたなかなかのヒットメーカーです。しかし、今から3年前の2003年7月、直腸がんのため50歳という年齢で他界しました。

JASRAC情報

製作日誌:
平成18年2月27日 歌詞のみ
平成18年2月28日 MIDIをアップ
主旋律を前半はDistorsionGuiterで、後半をRockOrganでやってます。
けど、WindowsのOEM版GS音源では全然意図した音が出てません。是非、MP3の方でお聴きください。
平成18年3月7日 小嶋さんに背景など詳細を寄稿していただきましたので、差し替え