midi版はこちら    mp3版はこちら  ただいまMP3で演奏中

筑豊の子守唄ハル版

【作詞】市丸 郁夫
【作曲】大潟 瑞生

1 遠賀河原に 菜の花咲いたよ
  勝盛山から 八木山へ
  桜花見に 行ったよね
  そうくさ そうばい そうやろが

2 遠賀河原で 魚を採ったね
  石炭(すみ)で濁った 川ん中
  汚して母ちゃんに 叱られた
  そうくさ そうばい そうやろが
  ボタ山のある町 お前の生れたふるさとよ

3 遠賀河原で 英彦山(ひこさん)見えるよ
  採銅所から 香春町(かわらまち)
  ホタル追いかけ 遊んだね
  そうくさ そうばい そうやろが

4 遠賀河原に すすきが揺れるよ
  福智山から 上野峡(あがのきょう)
  団子飾って 月見した
  そうくさ そうばい そうやろが
  ボタ山のある町 お前の生れたふるさとよ
  ボタ山のある町 お前の生れたふるさとよ


昭和59年、福岡県飯塚市の大潟瑞生と赤兵衛という若いデュエットで『スラを曳く女/筑豊の子守唄』のシングルレコードが発表されましたが、昭和61年、九州交響楽団と共演した『筑豊の子守唄』がNHKテレビ『九州のうた』にて放送開始され、人気を博したことがありました。現在はハルという名で『筑豊の子守唄』は歌い継がれ、CDも でています。
http://www.kbc.co.jp/kanren/kbc-oj/haru/

異風者の通信のMaekawaさんからのリクエストです。
 ハルの「筑豊の子守唄」が収められたCDジャケットを眺めていてジーンと涙ぐんでくるのは、私が年をとった証拠でしょうか。イエイエ、それだけではないと思います。私が生まれた所も炭鉱があった町でした。
 ジャケットの中の山のような絵は、ボタ山です。地底奥深くから掘った石炭と一緒に出てきた、製品にならない石をボタと言い、それを捨てていって山となり、ボタ山と呼ばれるようになりました。今もわずかに穂波町に残る 旧住友忠隈炭鉱のボタ山の高さは141.3メートル。その年輪1メートルごとに尊い犠牲者の霊が眠ると語り継がれています。
 そのボタ山の右横に見える赤色の塔のようなものが竪坑櫓(やぐら)と言い、ゲージと呼ばれたエレベーターに乗って男たちは毎日地底深く下りて行ったのです。
 ハルの「おおがたみずお」は福岡県嘉穂郡稲築(いなつき)町の出身。稲築町もまた炭鉱で賑わったことがある町でした。昭和40年、ガス爆発事故により237名の死者を出した三井山野炭鉱もここにありました。
 しかし、そんな暗いイメージとは逆に、ハルの「筑豊の子守唄」には明るいものを感じます。それは、「時代が変わっても、炭鉱があった町、おまえの生まれたボタ山のある町をいつまでも忘れないでほしい」という先人たちの 願いが込められているからではないでしょうか。(Maekawaさん)

最近、こういう昭和30年代の原風景をよく見かけますね。
この自転車の乗り方、「三角乗り」って言ってました。
背が小さくて、大人用の自転車、それもごっつい感じの黒塗りの自転車には足が届かないもんで、こういう乗り方になるんですね。
この子は、通学に自転車を買ってもらえたんですね。
エーちゃんがこの頃は、近所の貸し自転車屋で1時間10円くらいだったかな、で借りてました。マイ・バイシクルを買ってもらったのは中学以降でした。
この絵、ちょっとおかしいのは、男の子の乗り方。サウスポーならこういう乗り方になりますけど、普通は、左側からじゃなかったかな。もっとも、デザイン的に左から乗っていると、絵にならんかも知れんけどね。

どっかでも書きましたけど「ALWAYS、三丁目の夕日」のあの東京タワー
昭和33年5月のウチの窓からはこんな風でした(左)
小学校のグランドからのは右側です。

   

JASRAC情報

製作日誌:
平成18年2月12日 歌詞のみ
平成18年3月9日 MIDIをアップ
CDを聴きながらの耳採譜です。当初、6/8拍子か4拍子が悩みました。最終的に、3連符の4拍子にしました。
秋田合唱団のビーさんの採譜では、6/8拍子。前奏、間奏はビーさんの採譜を4拍子版にしてMIDIにしてます。
ビーさん、有難うございました。
平成18年3月11日 CDジャケット写真などを追記
Maekawaさんのコメントをいただきました